重い物を持ち上げるとき、無意識に歯を食いしばってしまうことはないでしょうか?これは、全身の筋肉が協調して働くためのメカニズムの一つであり、我々の命に刷り込まれたプログラムであるということが最新の研究でわかってきました。噛むこととからだは一見すると、関係ないように思えますが、実は密接な関わり合いがあります。今回は、スポーツ歯科学を研究している石上惠一先生に、噛むこととからだの関係についてお話をうかがいました。

噛むことによって、からだはどのような効果を得られるのですか?

あごの位置が正しく噛める状態にあれば、からだのバランス機能を維持・向上させ、筋肉の活動性を高める働きがあります。正しく強く噛むと、「火事場の馬鹿力」と評されるような、普段以上のパワーも生み出せるのです。本来、筋力は心理的限界の範囲でしか使えないようになっており、中枢神経で抑制されています。そのため、限界以上の力を出そうとすると、噛みしめる歯に強い負担がかかるため、脳は「歯に負担がかかりすぎています。危ないからやめなさい」という命令を出します。しかし、この命令を無視してさらに歯を噛みしめることにより、限界以上にからだに力を加えることができるのです。その結果、歯が欠けたり歯根が破折したりしかねない状態が生じます。噛むことが生み出す力のすごさはわかってもらえたかと思います。
また、噛むことにはこうした運動能力のパフォーマンスのほかに、海馬への影響、集中力の増強効果、認知症予防といった、脳にかかわる効果も確認されています。

なぜ噛むだけでからだにこんなに影響があるのでしょう?

歯の根の周囲には「歯根膜(しこんまく)」と呼ばれる線維組織があるからです。歯は噛むとミクロン単位で生理的に沈み込みが起こります。歯の根の先端部分周辺には三叉神経の末端の一部が歯根膜に絡み込んでおり、沈み込みによってそこに圧がかかると、脳にその情報が伝わります。脳への情報の興奮度が高いとほかの部分にも拡散していき、骨格筋に関与する細胞にも伝わって、より細胞活動を高めるという生理的な流れがあるのです。
また、触覚や圧力などの「感覚」、食べ物の「硬さ」や「唾液の量」などの情報も、脳に直接伝えています。つまり、よく噛むことで脳は刺激を受け、より活性化するのです。情報量は接触した歯の面積に比例して、「圧力」の情報として神経に多く伝わります。正しい噛み合わせによって、歯と歯の十分な接触面積が維持されていれば、それだけ多くの情報が脳へと伝わるのです。しかし、噛み合わせが悪かったり、うまく噛めなかったりすると、それだけで脳へ伝わる情報量は少なくなり、脳の活性化も不十分なものになってしまいます。

噛み合わせが悪いと、からだにどんな悪影響ができますか?

噛み合わせが悪いと、脳に十分な刺激が伝わらないだけでなく、咀嚼に使う筋肉や関節にかかる力に偏りが生じます。すると、頭痛、肩や首のこり、顎関節症、視力や聴力の減退、自律神経の乱れなど、さまざまな不調につながるのです。特に注意しなければならない悪影響は全身の姿勢にも歪みが生じ、バランス能力が低下してしまうことでしょう。
からだのバランス能力の低下は、高齢者にとって大きな問題です。寝たきりの理由としてよく挙げられる、足の付け根の骨折(大腿骨近位部骨折)のうち、80〜90%が転倒によるものだとされています。しかし、私はこうした転倒事故も、歯科医がきちんとした噛み方を指導してバランス能力の向上をサポートすれば、ロコモ(ロコモティブシンドロームの略称。運動器の障害により、介護が必要になる可能性が高い状態になること)などの予防も期待できると思っています。

大人だけでなく子どもたちにとっても、よく噛むことや噛み合わせは大事ですか?

もちろんです。よく噛んで食べる習慣をつけることで、咀嚼筋やあごの骨の発育も促されますし、歯並びもよくなっていきます。加えて、強い歯を持ち、噛み合わせの状態もいい子どもは、運動能力も高い傾向にあります。反対に、恐ろしい研究報告もあります。幼少時からあまり噛まずに柔らかい食べ物ばかりを食べて成長した子どもは、トレーニングを積んでも、スポーツ分野においてトップレベルに達することは難しいともいわれているのです。
正しい噛み合わせができているかどうかは歯科医に調べてもらうのが一番です。しかし、自分で簡単にチェックできる方法もありますし、噛み合わせの状態と体の動的バランスとの関係を実感することもできるため、まずは試してみるとよいでしょう。

正しい噛み合わせやあごの位置の安定は、スポーツだけでなく日常生活の基本です。定期的に噛み合わせをチェックして、健康的で豊かな生活につなげてもらえれば幸いです。

石上惠一(いしがみ・けいいち)

東京歯科大学特任教授
日本オリンピック委員会(JOC)強化スタッフ・スポーツドクター
日本体育協会公認スポーツデンティスト

1979年に日本大学歯学部を卒業後、1986~88年までU.M.D.S.GUY’S HOSPITAL(UNIV.LONDON)に留学。東京歯科大学助教授などを経て、2001年より東京歯科大学教授(スポーツ歯学研究室主任)。1997年から日本オリンピック委員会(JOC)強化スタッフ・スポーツドクターを務める。日本補綴歯科学会指導医、日本スポーツ歯科医学会認定医ほか認定多数。顎口腔系の状態と全身の運動機能との関係について、幅広く研究を行っている。