毎日の食事で繰り返される「噛む」という行為。実は、人体の「バランス感覚」と密接につながっています。噛み合わせが悪いと、全身のバランスに影響を及ぼすといわれ、最近では、アスリートの世界でも噛み合わせを重視する人が増えているそうです。「噛み合わせ」と「バランス感覚」がどのように関係しているのか、スポーツ歯科医学を研究している石上惠一先生に、お話を伺いました。

噛み合わせとバランス(平衡)感覚は、どのように関係しているのでしょうか?

当たり前の話ですが、人は二足で直立しています。身体の最も上部にある頭は、成人で5~6Kg。それを可動性の高い数多くの関節で支えており、頭の揺れは生理的な範囲を超えると身体のバランスに影響を与えます。噛み合わせが悪かったり、あごがずれたりすると、頭の位置に変化がおこり身体の揺れを大きくし結果として、重心が定まらず、バランス能力の低下が起こるのです。

また、あごの関節は内耳の近くにあるため、噛み合わせが悪くあご関節に負荷がかかるような動きをすると、内耳のバランス感覚をつかさどるところへも影響が波及します。

そもそも「バランス感覚」は、目から入る情報(視覚)、内耳、皮膚から入る刺激が、脳で統合されて身体の位置を保とうとします。目は、あごの動きに負荷がかかると、「眼振」といって、眼球が痙攣(けいれん)したように動いたり揺れたり、目の動きをうまくコントロールできなくなることがわかっています。噛み合わせが悪い状態では、あごがゆがんで負荷のかかった状態が続くわけですから、眼振が現れ視覚情報が正しく入らなくなり、バランス感覚に影響するというわけです。

目や耳といった器官だけでなく、その影響は脳にも及びます。噛み合わせが悪くてきちんと噛めないと、脳内神経物質のセロトニンがうまく分泌されず、ストレスが増大したり、情動が不安定になったりすることもわかっています。

噛み合わせが適切かどうか、自分で確かめることはできますか?

上下の奥歯をカチカチとしたときに、常に同じ位置で安定して噛めれば正しい位置で噛んでいるといえます。

安定しないようであれば、要注意。歯の根の周囲には、「歯根膜」と呼ばれるミクロン単位の組織繊維があり、噛むたびに歯根膜が僅かに沈んだり微小な揺れを生じたりし、歯の根もとの先端にある神経を介して脳に情報を伝えています。違和感のあるまま、つまり正しい位置ではない状態で噛んでいると、触覚や痛覚等の正しい感覚情報が脳に伝たわらなかったり、また噛むことによりおこる負荷情報が脳に伝達されてしまい、交感神経と副交感神経の自律神経系のバランスを乱すこととなり、さまざまなところに影響を及ぼして身体に不調が現れます。

噛み合わせが適切かどうか、自分で確かめることはできますか?

人は身体を動かす前に、必ず奥歯を合わせて噛む動作をします。噛むことで、「これから動くよ!」という情報を脳に伝達しているのです。

どのような競技でも動作前には、一度軽く噛みしめて自然と身体バランスの調整をしているようです。また競技中でも時として、噛みしめることにより歯と歯の接触面が広くなり多くの情報が脳へ伝わりますから、バランス機能の向上につながります。さらに力を入れる場合も骨格筋に関与する細胞活動を高め筋力向上にもつながり運動パフォーマンスに影響を与えることになります。

実際、私が指導したプロのアスリートのなかにも、噛み合わせを矯正したことでパフォーマンスを大きく向上させた人が何人かいます。

しかし、競技によっては、その特性から常に左右のどちらかに負荷がかかり、あごがずれて噛み合わせが悪くなることもあります。例えばスピードスケート。常に左回りに滑るので、あごが右側にずれる傾向があります。野球のピッチャーも、右投げなら左側に、左投げなら右側にと。

こうしたずれを予防するには、練習や競技が終わったあと反対側にクールダウンすることが大切です。野球でいうと、右投げなら左で投げるとか、右打ちなら左打ちのバットスイングをするとか。また第一線で活躍するプロゴルファーのなかには、練習後、必ず逆にスイングする人もいます。

気をつけるべきなのはアスリートだけではありません。スポーツクラブ等に入って小さなころから競技に取り組んでいるお子さんは、成長期に同じ動きを繰り返すことになるので、あごのバランスが崩れやすく、バランス感覚に影響が出る可能性が高まります。年に2〜3回、あごの動きを歯科で診てもらい正しいお口の機能の確立に心がける事が大切でしょう。

もし噛み合わせが悪くなってしまっていたら、どうすればいいのでしょうか?

本来なら正しい噛み合わせを得ることが大切ですが、時間的に余裕等がない場合、マウスガードやスポーツスプリント等のオーラルアプライアンス(お口の中に入れる装置の総称)を使って一時的に正しく均等に噛み合わせできるようにする方法があります。

これらは軟性で、奥歯を噛みしめたときに適度にたわみます。それだけ歯の接触面が大きくなるので、運動パフォーマンスの向上も期待できます。

スポーツ時に限らず、高齢の方等が普段からマウスガードやスポーツスプリント等のオーラルアプライアンスを使用するようにすると、転倒防止にもつながります。

「オーラルアプライアンスをすると、階段が上りやすくなる」という人もいるぐらいです。

マウスガード(上)やスポーツスプリント(下)等のオーラルアプライアンスの例

マウスガード(上)やスポーツスプリント(下)等のオーラルアプライアンスの例。高齢者の転倒防止につながることも。

オーラルアプライアンスは、個々の口や歯に合ったものでなければ正しい効果は得られません。日本スポーツ協会公認「スポーツデンティスト」の資格を持つ歯科で作ることができます。選手やスポーツ愛好家で噛み合わせが気になる方は、一度相談してみるとよいでしょう。

石上 惠一(いしがみ・けいいち)先生

東京歯科大学特任教授
日本オリンピック委員会(JOC)強化スタッフ・スポーツドクター
日本体育協会公認スポーツデンティスト

1979年に日本大学歯学部を卒業後、1986~88年までU.M.D.S.GUY’S HOSPITAL(UNIV.LONDON)に留学。東京歯科大学助教授などを経て、2001年より東京歯科大学教授(スポーツ歯学研究室主任)。1997年から日本オリンピック委員会(JOC)強化スタッフ・スポーツドクターを務める。日本補綴歯科学会指導医、日本スポーツ歯科医学会認定医ほか認定多数。顎口腔系の状態と全身の運動機能との関係について、幅広く研究を行っている。