監修:渡邊 裕(北海道大学 大学院歯科学研究院 准教授)

このところ「健康寿命」という言葉を、よく耳にするようになりました。医療・介護の力を借りずに、自立した日常生活ができる期間のことをいい、寿命に対する健康寿命の割合が高いほど、寿命の質が高いと評価されます。簡単にいうと、「加齢による筋力・身体機能の低下はあるものの、元気に過ごせる時間をたくさん持てるようにしましょう」ということです。近年の研究では、「健康寿命」を長くするための要素として、「噛む力」も関わっていることがわかってきています。

■噛む力と低栄養

グッと噛みしめる瞬間の力だけが、「噛む力」ではありません。食物を噛み砕き、すり潰し、唾液と混ざり合わせて塊にして飲み込みやすくすることも含めて「噛む力」です。人の食べる行為の根源を支えており、口周りの筋力・機能の低下は体を作るエネルギーの摂取に大きく影響を与えます。特に高齢者においては、食べこぼし、軽いむせ、噛めない食品の増加など本人では気が付きにくい症状としても現れます。さらに好物が食べにくくなったり、口の中に痛みがあったりすれば、食欲も低下します。

そして、噛む力の低下のうえに身体活動量の低下が加われば、ますます食欲は減退し、エネルギー摂取量が少なくなります。買い物、調理などへの意欲も低下し、おかずの品数も減って、栄養バランスも悪化し、質量ともに低栄養に陥りやすくなるのです。

「噛む力」について詳しくはこちら
『「噛むこと」と「飲み込むこと」の大切さ』

また、口腔機能の低下は、単純に食べられなくなるだけでなく、滑舌にも影響を及ぼし、人と会話することが億劫になってしまうこともあります。こうした社会的な側面なども含めて、「オーラルフレイル(口腔の虚弱)」という概念が注目を集めているのです。

「オーラルフレイル」について詳しくはこちら
『オーラルフレイルってなに?』

日本の地域在宅高齢者2000人を対象とした研究で、オーラルフレイルの人は健康な人に比べて、死亡リスクが高まることや、要介護状態になりやすくなる、ということがわかっています。

渡邊先生のポイント解説!

「食べやすい」「飲みやすい」食事が、よい食事ではない

高齢者の場合、徐々に咀嚼機能や嚥下機能が低下してくるため、無意識のうちに食べやすく飲み込みやすい食事ばかりを選びがちです。しかし、口の衰えに気づいたら、むしろ意識的に咀嚼や唇、舌の運動を促すような、たんぱく質やビタミン、ミネラル、食物繊維といった栄養が豊富で噛む力が必要な食品を選択し、摂食嚥下機能に関わる筋力を維持回復させることが大切です。このような意識を持つことで、摂食嚥下機能だけでなく、全身の筋力や身体機能も維持でき、外出や食事、会話を楽しめるようになり、社会参加への意欲も維持されます。

■オーラルフレイル予防のために

1. 食事環境の改善

低栄養状態から脱却するためには、日々の食事の内容に気を配ることが大切です。
まず、全身的なフレイルの改善のために筋肉量を維持・増加させるには、肉や魚といったたんぱく質の摂取が必須です。脂肪の少ない赤身の肉や魚を大きな塊で食べると、噛む回数が増え、口腔機能の訓練にもなります。また、豆腐や納豆などの大豆食品もたんぱく質が豊富なので、お勧めです。特に納豆は、整腸作用もあるので、便秘による食欲低下を防ぐことも期待できます。
次に、食物繊維の豊富な野菜の摂取を心がけることも、噛む力を鍛えるだけでなく、便秘による食欲低下を改善し、高齢者に不足しがちなビタミンの補給にもつながります。

高齢者は、一度に食べられる量が減少しがちなので、間食を摂ることも大切です。果物や牛乳、ヨーグルトなどを摂取すると、食物繊維、たんぱく質、ビタミン、ミネラルを補うことができ、摂取する食品の種類が増えるとともに、食事の量と質が改善し、低栄養の回避につながります。

2. 発声練習

口の周りの筋肉を動かすエクササイズも重要です。というのも、私たちが食事をする際に、無意識に行っている「噛んで飲み込む」という動作は、唇や口輪筋、舌、頬、顎などの筋肉を総合的に使っているからです。
口周りの筋肉を鍛えるエクササイズはいろいろありますが、その中でもお勧めなのが、誰でも簡単にできる「無意味音音節連鎖訓練」。意味のない音節を繰り返し発音するというものです。できるだけ意識して唇や舌を動かして発声するのがポイントです。はじめのうちは、ゆっくり、はっきり、大きく口を動かして発音することを心がけ、慣れてきたらだんだん速くしていきましょう。

このエクササイズを継続して行うことで、唾液の分泌が増え、唇や舌の運動能力も高まります。そして、しだいに口の周りの筋肉もほぐれて、スムーズに食べ物を飲み込めるようになります。

渡邊先生のポイント解説!

〝食欲を維持すること〟も大事

フレイル予防には、「食欲」を維持することも重要なポイントです。
噛みごたえのある食材を避け、柔らかい物ばかり選んで食べることは、噛む力が衰えるだけでなく、食べたいものが食べられなくなったりして、食欲を落とすことにつながります。

これは、高齢者に限った話ではありません。最近、中学生の給食の食べ残しが問題になったことがあります。ブロッコリーのような野菜を、噛みにくいからといって残してしまうのです。もし、ブロッコリーを食べなかったら、もしくは噛まずに味わうことなく飲み込んでしまったら、「これはおいしいな、好きだな」と思わないですよね。噛めるのに、ちょっとした歯ごたえがいやで食べようとしなかったら、二度と食べなくなり、ブロッコリーを美味しいと思える機会は失われます。

噛まずに嫌いになることが、食わず嫌いにつながり、食事のバリエーションを狭めてしまうのです。日本のような豊かな食文化がある国に住んでいる者にとって、それはとても残念なことです。

また、噛むことのメリットは、味や食感が得られるだけではありません。
噛んでいるときも、口と鼻の間で空気は行き来しています。流動食を飲み込むときは、鼻への通路が塞がるので、香りは鼻へ抜けません。噛むからこそ、香ばしさなどの風味と味、食感を同時に感じることができ、食事をより深く美味しく楽しむことが出来るのです。

よく噛むことで、味や食感、風味など、より多くの快感が脳に深く入力され、「また食べたい」という食欲につながります。「おいしかったので、またあそこに食べに行きたい」とか「誰かを誘って一緒に食べたい」という欲求も出てくるでしょう。
外出することや人と会話することは、記憶力や注意力などを必要とする知的な活動です。食欲を維持することは、身体のフレイルを防ぐだけでなく、知的な活動を増やして認知機能低下の抑制にもつながるのです。

渡邊 裕(わたなべ ゆたか)

北海道大学 大学院歯学研究院 口腔健康科学分野 高齢者歯科学教室 准教授 歯学博士

1994年、北海道大学歯学部卒業。97年、東京歯科大学オーラルメディシン講座助手。2001年、ドイツ・フィリップス・マールブルグ大学歯学部研究員。2007年、東京歯科大学オーラルメディシン・口腔外科学講座講師。2012年、独立行政法人・国立長寿医療研究センター口腔疾患研究部・口腔感染制御研究室室長。2016年、地方独立行政法人・東京都健康長寿医療センター研究所・社会科学系研究副部長。2019年、北海道大学・大学院歯学研究院口腔健康科学分野高齢者歯科学教室・准教授。2019年、『高齢者における軽度認知障害の指標としての口腔機能』で日本老年医学会・第10回GGI優秀論文賞を受賞。