口腔機能の低下と栄養摂取 ~『噛めない』ことから始まる負のスパイラル~

よく噛んで食べることは大事なことです。わかっていても、あまり噛まずに飲み込んでいる人は多いのではないでしょうか。最近は、年齢を問わず、軟らかい食べ物を好む傾向があり、噛みごたえのある食べ物は敬遠されがちです。しかし、軟らかいものばかり食べていると、噛んだり飲み込んだりといった口腔(こうくう)機能が低下し、「おいしく食べる」「食事を楽しむ」ことが難しくなってしまいます。また、口腔機能が低下すると健康面にも影響することがわかってきています。
今回は、北海道大学大学院歯学研究院准教授の渡邊裕先生に、口腔機能を保つことの大切さについてお話を伺いました。

口腔機能が衰えるとは、具体的にどのような状態のことをいうのでしょうか?

口腔の代表的な機能には、咀嚼(そしゃく)、嚥下(えんげ)、発音などがあります。口腔機能の衰えは高齢者に起こりやすいのですが、若い人でも、虫歯や歯周炎の痛みなどでしっかり咀嚼できなかったり、軟らかいものばかり食べていたりすると口腔機能は衰えてきます。咀嚼していて口の端から食べ物がはみ出たり、むせることが多くなったり、滑舌の悪さを感じたりしたら、口腔機能の低下を疑ってもいいでしょう。

また、つい軟らかいものに箸が向く、外食のときに硬そうなものは避けて軟らかそうなものを選んで注文するというのも、口腔機能が低下しているせいかもしれません。

口腔機能の低下が体に及ぼす影響には、どのようなものがあるのでしょうか?

噛む機能や飲み込む機能が低下すると、食べたい食品を思うように食べられなくなります。固い野菜が食べられないと食物繊維が不足して便秘になりますし、タンパク質やビタミンの摂取が減少すると筋肉や身体機能を維持できなくなってしまいます。その分、ご飯やパン、麺類などの糖質(炭水化物)の多い食品の摂取が増えます。人は食物を噛むことで味をよく感じることができます。噛まなくてよい食事は味がわかりにくいため、濃い味つけになりますし、副菜も糖分、塩分が多いものになりがちなので、糖尿病や高血圧などの生活習慣病の発症や重症化を高める可能性があります。

また、しっかり噛めなくなると、風味や香ばしさが口から鼻に抜けにくくなり、おいしさが半減します。食べることが楽しみでなくなり、食欲が落ちて、ますます栄養が偏ってしまいます。

咀嚼力と食品群別・栄養素等別摂取量
出典:本川 佳子. 2019.  高齢期の栄養ケア 歯科と栄養の連携. 老年歯科医学, 34, 81-85.

しっかり噛めない状態が続くと、筋肉など体の組成や免疫、代謝といった機能にも悪影響が及びます。特に、高齢者では問題が深刻です。食べこぼしや滑舌の悪さが、社会だけでなく、家族のなかでも孤立を生みます。こうした「口腔機能の低下」→「身体の健康を損なう」→「コミュニケーション能力の低下」→「社会性の喪失」という悪い流れは、『負のスパイラル』と言ってよいでしょう。

口腔機能の改善は、コミュニケーションの改善につながり、引いては認知機能の低下の予防にもなります。早い段階で口腔機能の低下に気づいて適切な対応をすれば、改善も早く、健康な口を維持できます。そのためにも、定期的に歯科を受診してほしいと思います。

口腔機能低下を防ぐための対策を教えてください。また、低下してしまった機能を向上させることはできますか?

虫歯や歯周炎のように、噛めない原因がハッキリしているときは、すぐに治療して問題解決する必要があります。些細なことでも、口の衰えに気づいたら、放っておかないことが大事です。私たちが高齢者を対象に行った口腔機能向上プログラム(口腔機能訓練・栄養指導・運動指導)では、咀嚼回数が増えて口腔機能が改善し、食欲も向上しました。さらに食品の多様性も改善したことで、適切な栄養摂取につながりました。このプログラムにも取り入れていることですが、私がお勧めしているのは、噛みごたえのあるおかずを1品加えることです。その1品をしっかり噛んで食べることで、食事における噛むことへの意識が喚起されるようになります。また食事以外では、唇や舌の動きには早口言葉が、舌や喉の筋肉を鍛えるには口の中全体にいきわたる様な強いうがいが、口腔機能を向上させるトレーニングとして有効でしょう。

また口もとの健康は、美容にも大きな役割を果たしています。よく噛まないと、口の周りの筋肉が衰えて、見た目年齢が上がります。高齢の女性が、口腔機能向上プログラムによって噛めるようになった結果、口まわりの筋肉が引き締まり、グッと若く見られるようになったという事例もあります。容貌に自信を持つことができれば、引きこもりがちだった人も、「外へ出て人と会おう」という意欲つながることでしょう。

先ほどもお話した『負のスパイラル』は口もとの健康がほんの少し損なわれることから始まります。そのまま放置して進んでいくと、引きこもりがちになり社会性までも失われかねません。老若男女問わず、よく噛んで食べることの大事さを再認識するとともに、生活の中に根付かせていけるような、そんな研究・活動を続けていけたらと思っています。

渡邊 裕(わたなべ・ゆたか)先生

北海道大学 大学院歯学研究院 口腔健康科学分野 高齢者歯科学教室
准教授 博士(歯学)
(2023年7月現在)

1994年、北海道大学歯学部卒業。97年、東京歯科大学オーラルメディシン講座助手。2001年、ドイツ・フィリップス・マールブルグ大学歯学部研究員。2007年、東京歯科大学オーラルメディシン・口腔外科学講座講師。2012年、独立行政法人・国立長寿医療研究センター口腔疾患研究部・口腔感染制御研究室室長。2016年、地方独立行政法人・東京都健康長寿医療センター研究所・社会科学系研究副部長。2019年、北海道大学・大学院歯学研究院口腔健康科学分野高齢者歯科学教室・准教授。2019年、『高齢者における軽度認知障害の指標としての口腔機能』で日本老年医学会・第10回GGI優秀論文賞を受賞。